耳や鼻といった動物の感覚器官を顕微鏡で覗くと、数種類の細胞が作る規則正しい幾何学的な模様が現れます。この規則的な細胞パターンが、外界からの刺激を感知する上で重要な役割を果たしていると考えられています。しかし、細胞がどのように安定的にパターンを作り出すことができるのか、その仕組みについてまだ謎が多く残されています。この謎に対し、神戸大学大学院医学研究科 富樫英 助教の研究グループはこれまでに行った実験から、細胞タイプによって細胞間に働く接着力の違いが生じ、この接着力の違いによりパターンが作られるのではないか、という仮説を立てました。そこで、京都大学大学院理学研究科 カレル?シュワドレンカ准教授、ルダイナ?モハマド同研究員 (現:フィリピン大学助教) と龍谷大学先端理工学部 村川秀樹 准教授の数学研究グループは、この仮説を数理的に検証することを試みました。細胞パターン形成の過程を記述する新しい数理モデルを創出し、計算機上でシミュレーションをするための数値計算手法を開発しました。実際の測定値に基づいた数値シミュレーションの結果、感覚器で見られる細胞パターンを再現することに成功しました。感覚細胞のパターン形成メカニズムが解明され、感覚障害等の疾病の治療にも役立つかもしれません。
本成果は、2022年3月18日に国際学術誌 Communications Biology にオンライン掲載されました。
背景
動物が音や匂いを感じるための感覚器官の上皮では2種類の細胞が規則正しく幾何学的に並んでいます。感覚を司る感覚細胞がそれを支える支持細胞によって囲まれることで感覚細胞が等間隔に並ぶモザイクパターンがつくられます。感覚器が正しく働くためには、規則正しく並ぶことが重要なのですが、細胞がどのようにして感覚機能に適したパターンを安定的に作り出すのか、まだ完全にはわかっていません。そのメカニズムの解明は、形態形成を理解する上で発生?細胞生物学分野の重要な課題とされています。感覚細胞と支持細胞では発現する接着分子の種類が異なり、細胞間の接着力の違いでモザイクパターンがつくられる可能性が高いということが、神戸大学大学院医学研究科 富樫英 助教の研究グループらがこれまでに行なった実験から示唆していましたが、細胞間の接着力の違いのみでパターン形成が説明できるかについては不明でした。そこで、富樫助教と共同研究を行なっていた龍谷大学先端理工学部 村川秀樹 准教授は、界面運動の数値計算手法について研究している京都大学大学院理学研究科カレル?シュワドレンカ准教授とルダイナ?モハマド同研究員 (研究当時、現:フィリピン大学助教) に声をかけ、生物学と数学の連携によりこの課題に挑む研究プロジェクトが発足しました。
研究手法?成果
研究グループは、細胞の形態形成をシャボン玉のような物理現象と関連付けて考えることから始めました。2つのシャボン玉が接している場合、2つのシャボン玉の間の膜上の界面張力が弱ければ接着面の面積は大きくなり、界面張力が強ければ小さくなるでしょう。そこで、実際の細胞において、単独では丸くなろうとする2つの細胞が接している状況を考えます。2つの細胞間の接着力が強ければシャボン玉と同じ様に2つの細胞が接している接着面の面積は大きくなり、接着力が弱ければ小さくなるでしょう。研究グループは、細胞間接着力と界面張力には逆の相関があると考え、細胞の形態やパターンの変化を界面張力の変化により表現する方法を考えました。この場合、界面張力は接着力のみでなく、細胞膜の収縮や膨圧などを含む力の総和として表現されます。このように考えることで、界面張力のみをパラメーターとして持つ非常にシンプルな数理モデルを創出することが出来ました。数理モデルがシンプルであるからと言って、容易に数値シミュレーションができるとは限りません。本研究では、数理モデルの提案と共に数値シミュレーションのための数値計算手法の開発も行いました。細胞再配列のシミュレーションに一般的に使われてきたvertex dynamics*1などの計算手法では数理モデルの十分に正確な解が得られないため、数値計算手法の開発も研究の重要なステップでした。細胞の複雑な形態を表現することを可能にするレベルセット法*2、細胞の体積を保存させるauction dynamics*3アルゴリズム、そして細胞の不自然な分裂を避けるための局所化アルゴリズムを組み合わせることで、正確な数値シミュレーションができるようになりました。マウスの嗅上皮と聴覚上皮のサンプルから、ある接着分子の濃度を測定して、細胞同士の接着力を評価しました。この値を数理モデルのパラメーター (「界面張力」=「接着力の逆数」として) に入力して、数値シミュレーションを行ったところ、実際に観察される細胞パターンを見事に再現することができました。このことは、感覚細胞の規則的なパターンの形成において界面張力の違いと変化が最も重要な要因であることを強く裏付けています。また、本研究を通して、細胞間接着力の違いのみでは説明が付かない細胞パターンについても界面張力の違いにより説明ができる場合があることが分かり、今後の研究の発展が見込めます。研究の最初の着眼点は「細胞間の接着力の違い」でしたが、シミュレーションの結果からは「細胞間の界面張力の違い」が細胞パターン形成に最も重要であるという結論に至りました。
波及効果、今後の予定
生物学の最先端のイメージング技術に数学解析の最新結果を組み合わせることで、感覚器官における細胞パターンの形成では細胞間の界面張力の違いが重要な要素であることを示し、発生生物学の基本的な疑問の一つに答えを出すことができました。これは基礎科学の成果ですが、感覚器官の形成メカニズムの解明につながり、最終的には様々な疾病の治療法の開発にもつながると期待しています。さらに、今回構築した新しい数値計算手法を計算ライブラリーに実装し、一般に公開していますので、他の生物学の諸問題の解決に役立つことにも期待しています。
本研究では、細胞間接着力、細胞膜の収縮、膨圧などの力の総和として界面張力を考えています。これらの関係性については一部実験により示唆があるものの、はっきりした定量的な関係性は分かっていません。それらの関係性を調べるための理論や計測手法の開発が次の課題です。
研究プロジェクトについて
本研究はJSPS科研費 (課題番号19K03634, 19H04965, 18H04764, 18H05481, 18K06219, 18H01139, 20H01823) 、JSPS特別研究員奨励費 (課題番号18F18016) 、JSTさきがけ (課題番号JPMJPR1946) の助成を受けたものです。データサンプリングでは勝沼紗矢香博士 (兵庫県立こども病院 耳鼻咽喉科) 、プログラミングではAdrien Rey氏 (ソルボンヌ大学) のご協力をいただきました。
<参考図表> 嗅上皮の数値シミュレーションの動画
嗅上皮でみられる細胞パターン形成の数値シミュレーション。左側は野生型マウスの接着分子の濃度測定値を用いた計算、右側はαN-カテニンという接着分子を阻害して、細胞間の接着力を変化させたときのシミュレーションで、いずれも実際に観察される細胞パターンを再現することが出来ています。
用語解説
*1 vertex dynamics
それぞれの細胞を多角形で近似し、多角形の頂点をエネルギーが減る方向に動かすことで細胞の変形を表す方法
*2 レベルセット法
細胞の形状をある関数のグラフの等高線 (等高面) として表現し、この関数に対する適切な発展方程式を解くことで、等高線 (細胞) の変形を実現する方法
*3 auction dynamics
オークションを模擬することで、界面の囲う領域の体積の保存を実現する計算アルゴリズム
論文情報
タイトル
“A numerical algorithm for modeling cellular rearrangements in tissue morphogenesis”
(和訳:組織形態形成における細胞配列をモデリングするための数値アルゴリズム)DOI
10.1038/s42003-022-03174-6
著者
Rhudaina Z. Mohammad, Hideki Murakawa, Karel Svadlenka, Hideru Togashi
掲載誌
Communications Biology