中 真生 教授

日本では「子育ては母親の仕事」といった性別役割意識が根強く残る。そのために、母親が一人で育児を担う「ワンオペ育児」で疲れ果てたり、社会的な孤立から子どもを虐待してしまったりするケースが後を絶たない。一方で、国が旗を振っても男性の育児休業の取得はなかなか進まない。そんな現状に自らの出産、育児をきっかけに疑問を抱いた中真生必威体育研究科教授は、哲学的な視座から親について考え抜く。その集大成となった著書「生殖する人間の哲学―『母性』と血縁を問いなおす―」は、独創的な学術研究に基づく著作に贈られる2022年度サントリー学芸賞を受賞した。中教授が考える親とは何か、また、自身の子育てと研究との両立の秘けつなどについても聞いた。

著書「生殖する人間の哲学」で高い評価

一般的に哲学は難しく、論理的に考えるイメージです。そもそも哲学とはどんな学問で、なぜ哲学を研究しようと思ったのですか?

中教授:

哲学とは?と聞かれたら明確な答えはなくて、対象とする分野も広く、研究者によって定義も違います。しいて言えば、突き詰めて考え続けることでしょうか。普通の人がここまでというところをさらに深く考えるのが哲学といえます。

子どものころからひとりで考えるのが好きで、親や先生が心配することもありました。小学4年生のときに担任の先生から「研究者に向いてるわね」と言われたことが頭の片隅に残っており、東京大学を受験する際、「大学院に進学して研究者になる割合が多い」と紹介されていた文科Ⅲ類 (文学部) を選びました。子どものころから、人と人との関係や、なぜ人がそのようにふるまうのか、なぜそんな発言をするのかといった人間そのものに興味がありました。大学でも人間の関係をテーマにしている哲学について学びたいと思い、「他者とは何か」を追究したフランスの哲学者エマニュエル?レヴィナスの思想を研究しました。レヴィナス研究は、学部の卒業論文から博士論文を書くまでの約10数年に及びます。

『生殖する人間の哲学』

レヴィナスからどんな影響を受け、「生殖する人間の哲学」にはどうつながっているのでしょうか?

中教授:

博士論文までは、オーソドックスな手法である哲学者のテキスト解釈を中心に、レヴィナスの哲学の中でも自分が興味のあること、例えば、身体や苦しみ、女性的なものや生殖をテーマに研究していました。ただ、1人の哲学者の思想を徹底的に解明するというのは肌に合わなくて、考えたいことがあってもレヴィナスに依拠する形でしか考えられないことに、ずっと窮屈な感じがしていました。

私立大学に就職した2007年ごろ、やはり子どもが欲しいと思い、35歳の誕生日に不妊治療を始めました。36歳で1人目が生まれ、2011年に着任した神戸大学で2人目を出産しました。じっくり腰を落ち着けて研究できる環境を得て、次に何をしたらよいか悩んでいた時期に2人目も生まれて、思うように研究の時間が取れなくなっていました。そんな折、学生時代の指導教員に「狭い意味での哲学にとらわれなくてもいいんじゃないか」とアドバイスをもらいました。だったら、レヴィナスも生殖を扱っていることもあって、まずは自分がいま関心があり、現実にその渦中にもいる生殖をテーマにして進めようと決めました。

もともとジェンダー問題に関心は持っていたんですが、研究テーマにしようとは思っていませんでした。けれど、子どもが生まれたことで、それまであまり感じなかった男性との差やハンデを強く実感するようになりました。2011年ごろから、関連するテーマで視点を少しずつずらしながら論文や研究発表を続けていたのをまとめたのが、「生殖する人間の哲学」です。

産むことと育てることを切り離して考える

ご自身の出産、育児の体験から出発して、母性や親を再考したということですが、どんなふうに捉え直したのですか?

中教授:

よく、産んだ母親が一番の親で、父親はそれに次ぐ存在だと考えられがちです。また父親と母親のあいだには越えられない境界線があるとみられることも多いですが、本当にそうなのだろうか、という問いから始まっています。よく見れば、男性でも妊娠出産の過程に心身両面でかかわりえますし、場合によっては女性自身より深くかかわっていることさえあります。母親が出産後すぐに仕事や他のことに関心や労力を注ぐこともあるし、父親が母親にも増して子どもと緊密な関係を結ぶこともあります。

そこで、「母性」とみなされるものは何なのかとあらためて考えてみると、その核には、「産むこと (産んだこと)」が根を張っているように思えます。つまり、母親は妊娠し、出産したのだから、子どもが母親を一番強く求めるのは当然だというふうに信じられています。それが、母親が子育ての中心を担うのは当たり前、という信念にもつながっています。けれどもじっさいは、父親が子どもと最も緊密な関係を結ぶこともあるし、育ての親が、子どもの最も求める「第一の親」になることもあるので、「母性」または「第一の親」から、産むことを切り離して考えるのがまずは重要なのではないかと思うんです。では、何が親であることの核にあるのかというと、それは育てることであり、また、子どもとかかわり格闘する中で子どもと心身ともに緊密な関係を結ぶことなのではないかと考えています。

「赤ちゃんポスト」や子どもの虐待などの事例にも触れています。

中教授:

具体例があった方が分かりやすいと思って、熊本県の慈恵病院に設置された「赤ちゃんポスト」や新生児養子縁組、里親、児童養護などの例を挙げています。産むことと育てることは切り離せないと思い込んでいると、望まない妊娠や経済的な理由で子どもを育てられない場合は、中絶するよりほかに方法がないことになります。でも、産むことと育てることを切り離して考えれば、産んだ親が育てられない場合は他の人にそれを託すことがあってもよいということになります。「赤ちゃんポスト」に対しては、安易に子どもを棄てる行為を助長するといった批判もありますが、本当に育てることが難しければ、他の人に託して、子どもはもちろん、親自身も生き延びる方法が真剣に模索され、またそうしうる環境が現実に整えられるべきだと思います。

虐待のケースでも、親がギリギリまで追い込まれる前に、一時的、長期的に児童養護施設や里親を含む他の人に預けたり、養子縁組を考えたりするなど、状況に応じてさまざまな選択肢が柔軟に、また現実的に考慮できる社会になればよいなと思っています。そういう選択肢が現実に利用しうる形であるだけでも、気持ちが楽になるのではないでしょうか。

子どもと緊密な関係を結ぶのが「親」

父親についても従来と異なる見方を提示しています。

中教授:

現状では、父親は母親に次ぐ二番手のように捉えられがちですが、じっさいは必ずしもそうではありません。父親や祖父母、また血縁関係にない養育者が、子どもと心身ともに最も緊密な関係を築いていて、その意味で子どもにとっての「第一の親」であることもあります。これに関しては、父親である男性たちからの反響が大きくて、嬉しかったですね。「知らず知らずのうちに妻が一番で自分は二番手だと思っていたけれども励まされた」と言ってくれる男性もいました。ただ、育児に積極的に参加していても、本当の意味で「親であること」の核心まで達している男性は、まだそれほど多くないと思います。核心とは、子どもと心身ともに最も緊密な関係を築くこと、その意味で「第一の親」であることですが、そこがいちばん「うま味」のあるところで、例えば、「パパがいい」と言われたら、父親も子どもから離れたくなくなるのではないでしょうか。一方で、母親もその「うま味」を譲りたくないと無意識に思ってしまっているかもしれませんが、一時的、部分的にでも、譲り渡す覚悟が必要だと思います。そうすれば母親も、仕事やその他のさまざまな領域で今まで以上に力を発揮する可能性が広がるのではないかと思います。

あらためて、親とは何かという問いにどう答えますか?

中教授:

親というのは、誰かひとりが (第一の) 親だとか親じゃないとかいうのではなく、 (第一の) 親という「状態」であって、そこには複数の人が参加できるし、その割合もさまざまで、その時によって出入りも自由、濃淡も変化する、というようなものではないかと考えます。子どもにとっての「第一の親」は、複数人でシェアしうるということです。生みの親と育ての親がいる場合は、両者を含めたさまざまな人たちが子どもにとっての「第一の親」になりえます。このように、時と場合によって柔軟に変化し流動する「親」が形作られることは、子どもにとっても親にとってもよいことであり、必要なことだと思います。

今後の研究テーマは?

中教授:

いま、「喪失」をテーマに論文をいくつか書いているところです。喪失というと一番の核は死別だと思いますが、ほかにも、離婚や失恋などの関係の喪失や、自信や希望の喪失など、さまざまな次元の喪失がありえます。「あいまいな喪失」という概念も提起されていて、冷え切った夫婦や親子関係のように、見えないけれどもじっさいは「喪失」しているということもあります。老いもまたそうで、身体的な機能が衰えたり、退職や子どもの独立などで仕事や人間関係、社会的役割や家庭内の役割を失ったりします。そういったさまざまな喪失に考察を広げていきたいと思っています。

自分自身が最近、大きな喪失を経験したことがきっかけとなりました。けっこう長い間、生活も仕事もままならないような状況だったんですが、私の場合は、行き詰って前に進めなくなったときに、「これはどういうことなんだろう」と突き詰めて考えてみて、何かが分かると少し楽になるところがあります。また、大人の自分がこれだけ辛いなら子どもはどれほどだろうと思ったこともあり、「子どもが経験する喪失」というテーマでシンポジウムの提題もしました。あと1、2年ぐらいかけて本にまとめられたらと思います。

中真生教授と著書

最後に、3人の子育てをしながら教育、研究を続けるのは大変だと思いますが、どんなふうに両立してきましたか?

中教授:

現在、中学3年、小学6年、2年の子どもがいますが、夫が単身赴任で平日は家にいないので、子どもが小さい頃は、週末は日中、夫に子どもを連れ出してもらってその間に研究していました。週日は、保育園に子どもを送っていってそのまま近くのファミリーレストランで、混雑してくるお昼までの数時間、集中して勉強していました。それで、論文もたくさん書くことができてすごく助けられました。今でも夫は単身赴任なので、私が研究できるのは昼間だけです。家にいるとのんびりしてしまうので、主にファミレスや図書館に行って勉強しています。短い時間をいかに集中して濃密にするかが勝負ですね。

中 真生 教授 略歴

2005年3月東京大学大学院人文社会系研究科単位取得満期退学
2007年4月神戸夙川学院大学准教授
2007年12月東京大学博士 (文学) 取得
2011年4月神戸大学必威体育研究科准教授
2021年6月神戸大学必威体育研究科教授
2022年12月「生殖する人間の哲学―『母性』と血縁を問いなおす」が第44回サントリー学芸賞 (思想?歴史部門) を受賞

研究者

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