阪神?淡路大震災が発生した1995年1月17日、神戸商船大学(現?神戸大学海洋政策科学部)は甚大な被害に見舞われた。キャンパスがある神戸市東灘区の深江地区では、阪神高速道路が横倒しになり、多くの住宅が倒壊した。大学の教室は遺体安置所となり、体育館や学生寮「白鴎寮」は被災者の避難所になった。震災直後、寮の学生が住民の救出に奔走したことは地域で語り継がれている。震災から30年となるのを前に、当時、神戸商船大学教授で学生部長を務めていた杉田英昭さん(神戸大学名誉教授)に経験を振り返ってもらい、後世に伝えたい思いや教訓を聞いた。
地震発生は午前5時46分。その後すぐ、神戸市北区の自宅からマイカーで神戸商船大学を目指したそうですね。
杉田名誉教授:
大学に行く前に、途中にあった白鴎寮に立ち寄りました。大学から歩いて10分ほどの場所です。幸い建物に大きな被害はなく、すでに多くの学生が近隣住民の救出のために寮外へ出ていました。当時はもう全寮制ではなく、学生による自治寮となっており、寮自治会長の3年生が寮生による救助活動の指揮をとっていました。その時点ではまだ、住民の方々は避難してきていなかったと記憶しています。
寮から大学に行くには、国道43号線を横断しなければならないのですが、国道の上を通る阪神高速道路が倒壊し、通行は困難でした。寮近辺の道路も倒れた電柱でふさがれていました。そのため、車は寮に置き、徒歩で大学に向かいました。
称賛された白鴎寮の学生の救出活動を振り返って
白鴎寮の寮生は100人以上の住民を救出したといわれ、その活動は多くのマスコミに取り上げられました。防災功労者内閣総理大臣表彰など、さまざまな表彰も受けましたね。
杉田名誉教授:
神戸商船大学は学内船舶実習や実験実習があり、寮にはヘルメットや安全靴、作業服、軍手などがそろっていました。それらは救出活動に役立ったと思います。さらに、寮生は周辺の住民や東灘消防署からもバールやのこぎりを借り、倒壊した住宅に埋もれた人々を助け出しました。
大学としては、震災5日後に寮の居室棟を閉鎖して学生を帰省させましたが、寮自治会役員の学生たちは帰省せず、寮に避難してきた住民の支援を続けてくれました。そうした活動に、多くの方々から感謝の手紙や電話をいただきました。
ただ、神戸商船大学の学生だけが頑張ったわけではありません。ほかの被災地域の若者たちもボランティアもさまざまな支援活動をしていました。神戸商船大学は少し過大評価されているかもしれません。そのような思いは、当時の寮生も語っていました。彼らは多くの称賛を得て少し戸惑っていましたね。
当時は学生部長でした。どのような役割を担いましたか。
杉田名誉教授:
学生部長は普段、学生生活や教務にかかわること、入学試験、寮の管理などを担当しており、地震後もその役割を担いました。地震当日、井上篤次郎学長(当時)を本部長とする災害対策本部を図書館の自習室に設け、事務局長と私が副本部長に就きました。
図書館の自習室は、前日まで大学入試センター試験の実施本部として使っており、地震後も臨時電話が1回線つながっていたんです。携帯電話が普及していない時代ですから、その回線は非常に役立ちました。
当日一番つらかったのは、大学近くのアパートに住んでいた教え子の学生が亡くなったことでした。つぶれた1階から引き出された遺体を、職員や寮生がリヤカーに乗せて白鴎寮に運びました。「なぜこの子が亡くならなければならないのか」と、本当にショックでした。学生の犠牲者は学部生3人、大学院生1人、留学生(研究生)1人。当初安否が分からず、指導教官が居住地や遺体安置所を探し回ったケースもありました。
普段の仕事の関連で大変だったのは、地震の3日後に学部の推薦入試を控えていたことでした。試験は延期せざるを得ず、1月27日と2月3日の2回に分け、会場も大学と大阪市内などに分散して実施しました。
留学生の所在確認も大変でした。幸い、留学生同士のつながりが密接だったので、口コミで情報が入ってきました。ただ、余震が続いていたこともあり、大学に避難してきた留学生は建物に入るのを怖がっていました。キャンパスの植木や添え木を抜いて、たき火をしていましたが、駄目だとは言えませんでしたね。
遺体安置所や避難所になった大学。船舶活用の重要性を実感
大学は遺体安置所、避難所にもなりました。
杉田名誉教授:
2教室を遺体安置所として使わせてほしい、と警察から要請がありました。しかし、それだけでは足りず、最終的に計3教室を提供し、160体のご遺体を受け入れました。最初に寮に運び込んだ学生の遺体も大学に移し、ほかの学生や大学関係の犠牲者も安置しました。大学職員は、安置所で使うドライアイスの調達なども担いました。
安置所には警察官が不眠不休で詰めていて、大変な仕事だと感じました。安置所を閉じたのは地震の10日後です。最後の日、教室の黒板に「お世話になりました」という言葉が書かれていて、ありがたかったです。こちらこそ「ご苦労さまでした」と言いたかったですね。
住民の避難所として開放したのは、キャンパスの体育館と武道館、そして少し離れた白鴎寮の食堂です。地震から5日後の時点で、体育館と武道館には合わせて約600人、寮には約460人の避難者がいました。大学は神戸市から災害時の避難所に指定されていますが、私たちが避難者の支援まで担うことは想定していませんでした。それでも、教職員や学生は食料や物資の提供、生活に必要な支援など、できる限りの対応をしたと思います。
心強かったのは、全国の国立大学からの応援と、練習船を保有している大学や商船高等専門学校(商船高専)の海路による支援です。災害時の船舶の活用は重要だと実感しました。船には、海水を真水にする造水装置があり、トイレやシャワーも使えます。シャワーが浴びられるということで、避難者には大変喜ばれました。船による救援物資の輸送、乗組員による炊き出しも助かりました。学校だけでなく、船会社などの海事関係団体からも多くの支援がありました。
直後の混乱の後、復旧?復興段階ではどのような対応を?
杉田名誉教授:
大学には広いグラウンドがあるため、さまざまな復旧作業の基地となり、大阪ガスや自衛隊の拠点が置かれました。テニスコートには、地震の被害を受けた小?中学校の仮設校舎が建設されました。各団体や行政から用地提供の依頼があれば、大学はすぐに決断していましたね。
わたしは地震当日から3月初めくらいまで、ずっと対策本部で寝泊まりしていました。3月ごろになると、新学期に備えて学生が戻ってくるため、寮に避難している住民に大学の体育館へ移動をお願いしなければなりませんでした。しかし、避難者には高齢者も多く、「通っている病院から遠くなる」などの理由で移動が難しいケースもありました。対応はなかなか難しかったですね。最終的に避難者がゼロになったのは、地震から7カ月後の8月下旬でした。
若者はいざとなれば行動できる
神戸商船大学の震災対応で、課題として感じたことは?
杉田名誉教授:
学生の生活の場である寮を避難所に指定することは、できれば避けたほうがいいように思いました。学生は普段、地域住民にお世話になっており、緊急時には当然協力すべきですが、寮はあくまでも暮らしの場なので、一考すべきでしょう。
また、当時、住民の救出活動や遺体搬送にかかわった学生、職員の精神的ケアという視点は、私たちにはありませんでした。
一方で、非常事態下でのさまざまな発見もありました。普段それほど積極的でなくても、災害時に思わぬ活躍をしたり、アイデアを出したりする職員がいます。組織の上に立つ者は、職員のそういう部分を見る必要があると感じました。
つらかったのは、亡くなった学生に卒業証書を出せなかったことです。「冷たい」という声もありましたが、規則上どうしても難しかったですね。きちんとした在学証明書のような形でも、出せばよかったと感じています。
今も全国各地で災害が発生しています。伝えたい経験、教訓は?
杉田名誉教授:
緊急時であっても、人間の尊厳をいかに保つかということが重要だと思います。避難所での住民支援は本来、大学の仕事ではありませんが、放っておくことはできません。また、災害が起こるたび、トイレの確保はやはり大きな問題で、最大のストレスだと感じます。
神戸商船大学の学生は、地域住民の救出活動で称賛されましたが、若者はいざとなれば皆、行動できると信じています。神戸商船大学の経験は、今の学生に対し「皆さんもきっとできますよ」という勇気づけに使ってもらえればと思います。
杉田英昭名誉教授 略歴
1943年生まれ。1965年、神戸商船大学商船学部機関学科卒業。1973年、神戸商船大学助教授。1980年、工学博士(大阪大学)。1988年、神戸商船大学教授に就任し、1994年に学生部長、2002年に副学長(教育担当)。2003年10月、神戸大学と神戸商船大学の統合に伴い、神戸大学海事科学部教授。2006年、神戸大学名誉教授。神戸大学海事博物館顧問。