気候変動対策が遅々として進まない中、南極氷床の融解による地球の海面上昇が予測され、世界中の沿岸地域に住む人々の生活や経済活動に多大な悪影響を及ぼしうるとされます。最近、南極氷床融解を工学的手法で物理的に遅らせる技術=南極ジオエンジニアリング=が提唱され、その科学的?技術的有効性や資金的可能性を検討する論文が多く発表されています。今回の研究は、こうした議論に、国際政治学と国際法学の立場から、仮にこの技術が南極で実施されるならば、南極条約に基づく国際ガバナンス上の重大なリスクになると論じています。

南極ジオエンジニアリングで現在最も有力に主張されているのが、2024年1月のネイチャー誌でも紹介された、西南極氷床の手前の海底に長さ80km、高さ100mの「カーテン」を設置する構想です。この研究は、このような巨大インフラを南極に設置することに伴う国際ガバナンス上のリスクを、南極地域を「国際的な不和の舞台にしない」とする南極条約の目的に照らして考察しています。

この研究成果は、神戸大学極域協力研究センター長で国際法を専門とする柴田明穂教授と、ドイツ?フランクフルト平和研究所で国際政治学を専門とするパトリック?フラム主任研究員との共著で、11月18日にイギリスの王立国際問題研究所(チャタムハウス)の機関誌『International Affairs』に、ポリシー?ペーパーとして発表されました。ポリシー?ペーパーは、現下の国際的な課題?問題について、精確な実証分析とあり得る解決策を提示する内容の研究成果を迅速に公表することによって、国際的な政策議論に学術的なインプットを行うものであり、発表後には世界的な反響が期待されます。

ポイント

  • 西南極氷床は、地球上で最も危険なティッピングポイント=気候変動の影響が不可逆的に進行する現象=のひとつとされ、その氷床の崩壊は世界の平均海面を5メートル上昇させるという研究もある。最近、地球規模の海面上昇を食い止める南極ジオエンジニアリング(以下、南極GE)として、氷床前面の海底に巨大なカーテンを設置して氷床融解スピードを遅らせる工学的構想の有効性について議論が盛んに行われている。
  • この南極GEについては、予測し難い技術的及び環境的リスクがあることが指摘されている一方で、人間や社会基盤がない南極環境への影響と、海面上昇で影響を受ける主に途上国を中心とした数百万人の人の命や沿岸域の経済活動への影響を天秤にかけて、技術の開発は進めるべきだという議論がある。
  • 以上のような学術状況において、これまで南極GEが提起するガバナンス上のリスクについては過小評価されてきたところがあった。本研究は、この研究上のギャップを埋めて、南極GEについて科学技術的な議論と共に、国際政治学と国際法学による分析を含むガバナンスに関する議論を正当に評価すべきと論じている。
  • 本研究は、南極地域を国際的な不和の舞台にしないとする南極条約の目的や、南極地域を平和的目的のみに利用するといった義務に照らして、南極GE構想が提起するガバナンス上のリスクを分析している。そして、 (1)この構想の決定権をもつのは誰か、(2)南極条約で棚上げされている領土権を巡る紛争を再燃させる可能性はないか、(3)地球の将来を左右する重要インフラをどう防護していくのか、という3点から、重大なガバナンス上のリスクを伴うと結論付けている。

研究の背景

気候変動への工学的対応策=ジオエンジニアリング(GE)=として、二酸化炭素除去(CDR)や太陽放射改変(SRM)などに加えて、地球温暖化の中で融解が進む南極やグリーンランドの氷床や山岳地帯にある氷河などの崩壊を防止ないし遅らせる技術=雪氷ジオエンジニアリング(以下、雪氷GE) =が科学界で注目されています。特に、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が2019年に発表した「海洋?雪氷圏特別報告書」が、氷床や氷河の融解が今後の海面上昇の主要な要因になることを指摘してからは、地球の海面上昇防止策として雪氷GEに関する科学技術的研究と議論が盛んになっています。

雪氷GEの科学技術的研究を世界的にリードしてきたのが、フィンランド?ラップランド大学のジョーン?モア教授とその研究チームです。西南極氷床は2つの氷河の背後にあり、これら氷河が海に張り出している部分=棚氷の海底部分=が暖かい海流によって溶かされることによって流出スピードが速まっているとされます。モア教授らは、いくつかの技術を比較検討した結果、氷河の前面の海底に巨大カーテンを設置して、暖かい海流をせき止めることにより氷床融解を遅らせる技術が最も効果的であるとして、その技術開発を進めています。モデリングやシミュレーションを経て、いくつかの工学的技術は試験段階に入っているとされます(※1)。

そして、モア教授のこの研究成果を紹介した記事が、2024年1月のネイチャー誌に「巨大カーテンは氷床融解を遅らせることができるのか?」との表題で掲載されました(※2)。この記事が、ニューヨーク?タイムズ誌などでも引用されたことにより、世界的な議論が沸き起こりました。この構想の実現にはまだ相当の時間と費用がかかるとはいえ、海面上昇防止のための1つの技術として実際に南極での実地調査が行われるようになれば、南極環境や生態系への影響をはじめ、南極条約や国際海洋法との整合性、国際政治や南極国際協力への影響など、より広範な議論及び検討が必要となります。

雪氷GEについて国際政治学の観点から研究してきたフラム研究員を2024年2月に神戸大学に招へいし、南極条約に関する国際法研究を長年続けていた本学?柴田教授と国際セミナー等を通じて学際的な研究を深化させ(※3)、今回の論文公表へと至ることができました。

(※1) Bowie Keefer,  Michael Wolovick,  John C Moore“Feasibility of ice sheet conservation using seabed anchored curtains”, PNAS Nexus, Volume 2, Issue 3, March 2023. 

(※2) Xiaoying You, “Could giant underwater curtains slow ice-sheet melting?” Nature, 17 January 2024. 

(※3) 27th PCRC International Law Seminar, “Governing Glacial Geoengineering at the South Pole?” 4 March 2024. セミナーの様子はYouTubeで視聴できる。

研究の内容

これまでの南極GEに関する学術的議論で欠けていたのは、巨大カーテン構想がもたらす南極条約体制や国際海洋法の文脈における国際ガバナンスへの影響の考察でした。南極GEが南極ガバナンスのフォーラムである南極条約協議国会議(ATCM)において実際に提起されたことは未だありません。しかし、会議に参加する環境NGOからは2024年5月の会議において慎重検討を要請するペーパーが出されており、また西南極氷床の融解に関する科学調査やその研究成果についてはATCMでも紹介されています。つまり、中期的には十分に現実のものとなり得るガバナンス上の挑戦に対して、先回りしてその政治的課題を学術的に解明しておくことは重要であると考えます。

また南極GEの問題は、これまで最も効果的に運用されてきたとされる国際ガバナンスの1つである南極条約体制が、ロシアによるウクライナ侵攻などの地政学的変化もあり、必要な対応を全会一致によって迅速に決定できなくなりつつあるという状況の中で、議論されうることにも注意が必要です。このような状況下において、モア教授ら自然科学者による南極GEに関する提案は、南極GEがもたらしうる政治的リスクと法的複雑さを過小評価しているように見えます。南極GE推進の研究者のなかには、南極GEに関連する研究であることを隠して、通常の雪氷調査であるとして南極でデータ収集を続けることができるといった議論をする者まで出てきています。こうした議論は、南極条約体制が拠って立つ「透明性の原則」などの理解が十分になされていないように思われます。

本研究は、南極ガバナンスの基本原則が南極条約によって定められていることから、南極GEの議論もこの基本原則を踏まえてなされるべきとの立場です。特に、その前文で宣明されているとおり、南極条約は、南極地域が「国際的不和の舞台又は対象にならないこと」を目的としており、その第1条で、「南極地域は、平和的目的のみに利用する」と規定しています。本研究では、南極の平和利用の原則を重視して考察し、南極GEは国際的不和をもたらすリスクが以下の3点においてあると論じます。

第1に、誰がこの南極GEの実地調査や設置を決定し、誰がその責任を負うのでしょうか。南極GEの受益者は南極条約に加盟していない多くの途上国とその沿岸部に住む人々であるのに対して、南極における活動の決定権は、日本やアメリカ、ロシアや中国、ヨーロッパ諸国など南極観測の実績がある29ヶ国の協議国が持っています。南極GEの決定権を協議国から取り上げて、例えば国連などに移すような議論になれば、現在の南極条約に基づくガバナンスは重大な危機を迎えます。第2に、半永久的にある場所に固定される南極GEの管理を巡っては、南極条約で棚上げされている領土紛争の再燃をもたらしかねません。南極条約の寿命を超える可能性が高い巨大海底カーテンの設置を、南極への領土主張の根拠にしようと企む国がないとは言えないからです。第3に、地球上の多くの人々を海面上昇から救うこの巨大インフラは、一国内のダムや原子力発電所などと同様に、国際社会にとっての重要インフラとなります。それはつまり、国際社会に反発するテロリストなどの格好の攻撃ターゲットになり得ます。巨大海底カーテンを防護するために、治安部隊や軍隊を派遣して、テロリストなどと交戦することになれば、南極条約が定める非軍事化の原則に反します。

本研究は、歴史的教訓として、1980年代に同様のガバナンス上のリスクをもたらしかねなかった問題、すなわち南極鉱物資源開発問題に対して、ガバナンス上のリスクを回避する形で、協議国が1991年に環境保護議定書を全会一致で採択して、鉱物資源開発を禁止した例を想起します。本論文は、その結論として、南極ジオエンジニアリングたる巨大海底カーテン構想についても、同様の方針を示唆します。

今後の展開

巨大海底カーテン構想を含む南極GEについては、その技術の南極での実地調査を始める前に、まずはその科学的、技術的有効性について、より精緻な学術的議論が必要です。この点に関して、南極科学研究を調整する世界的な科学団体である南極研究科学委員会(SCAR)が、最近、南極GEを検討するグループを立ち上げたという情報があります。南極GE推進派だけではない科学者、そして雪氷学や海洋物理学など南極GEの技術的有効性に直接関わる研究者のみならず、南極生態学や南極設営の専門家も含めたより包括的な科学的?技術的?生態系的?設営的検討が進むことが望まれます。

南極地域が領土権の主張が凍結された国際化地域であるため、南極GEの実際の実施をめぐる法的制約や政治的決定は、いずれかの国の法律や政治状況ではなく、初めから国際的に検討しなければなりません。国際政治学と国際法学は、南極GEをめぐる科学技術的な検討に加えて、その技術が適用されうる政治的背景や守らなければならない(もしくは改正しなければならない)法的制約などにつき解明することができます。南極GEが持つ潜在的な利点とリスクをバランス良く考慮しながら、他の気候変動対策との統合なども含め、南極条約体制として、更には国際社会全体として、どのように対応していくのが適切かを、社会科学的研究をベースに引き続き議論して行くことが望まれます。

日本は、2026年5月に南極ガバナンスの重要フォーラムである南極条約協議国会議(ATCM)を、平和都市ヒロシマで主催することになっています。南極地域が「国際的な不和の舞台にならないこと」が益々重要になってきている今、南極GEの議論も含め、日本がこのような学術的成果も踏まえて、南極ガバナンスの運営にリーダーシップをとってもらいたいものです。

謝辞

本研究は、神戸大学国際共同研究強化事業C型、科研費挑戦的研究(開拓)「人新世における南極条約体制のレジリエンス研究」(21K18124)の支援を受けて実施しました。

論文情報

タイトル

Ice sheet conservation’ and international discord: governing (potential) glacial geoengineering in Antarctica

DOI

10.1093/ia/iiae281

著者

Patrick FLAMM, Akiho SHIBATA

パトリック?フラム:

ドイツのフランクフルト平和研究所?国際安全保障研究部主任研究員。神戸大学客員准教授(2024年2月?3月)、地球システム?ガバナンス?プロジェクト研究員。

柴田明穂:

神戸大学 大学院国際協力研究科教授?極域協力研究センター長。南極研究科学委員会(SCAR)人文社会科学常設委員会?執行理事、The Yearbook of Polar Law(Brill社)共同編集長。

?掲載誌

 International Affairs (Oxford University Press)

関連リンク

極域協力研究センター (PCRC)

研究者

SDGs

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