東北大学の窪田亜矢教授 

阪神?淡路大震災の被災地では、大規模な市街地再開発や土地区画整理事業が行われ、復興まちづくりの方針をめぐって行政と市民の対立も起きた。東日本大震災(2011年)など他の被災地でも、まちづくりのあり方は大きな課題となっている。この30年、日本の都市計画はどのような課題に向き合い、どう変化してきたのか。東日本大震災などの現場に入り続け、「地域デザイン」を専門に研究する東北大学大学院工学研究科の窪田亜矢教授に聞いた。

阪神?淡路大震災の発生時は、東京の都市計画設計の会社に勤務されていたのですね。

窪田教授:

震災の翌月だったと思うのですが、建築や都市計画の学会が中心となって建物の被害調査をしていると聞き、参加しました。被災地を歩いて建物の被害程度を目視し、地図上に色鉛筆で塗り分けていく調査でした。体育館の観客席のような場所に寝泊まりし、大変寒かったのを記憶しています。被災者の方のつらさはいかばかりかと思いました。

その後、研究の世界に戻り、神戸の復興についても学びの機会をいただいてきました。震災20年の時には、阪神?淡路大震災を研究テーマにする学生と住民の話を聞いたり、街を歩いたりしました。

震災から20年を経た時点では、復興事業などによってできあがった空間が、どのように地域に根付いているのかというメタレベル(一段深くて目には見えないレベル)で考えなければならないと感じました。都市計画の検証にもそのような視点が必要だと思いました。

復興の目標は地域に戻る人数ではない

東日本大震災の被災地では、どのような活動を?

窪田教授:

震災当時、東京大学で研究していたのですが、東大の施設が岩手県大槌町にあった縁で、復興まちづくりにかかわるようになりました。赤浜という地区の復興コーディネーターとなり、住民の意見が行政の計画として実現するよう考えました。

住民の意見は一つではありません。住民と行政の間で緊張が高まる場面もあります。そんな中で、学生たちが地域にかかわる活動が現場にとってプラスになったと思います。学生がまちの歴史の大切さに気づき、古い写真を集めたり展示をしたりすると、それによって住民も「まちにとって大切なもの」を意識したようにみえました。

大槌町では、町長や多くの職員が津波で亡くなりました。家族を亡くした職員もいます。そういう状況で、職員は最前線に立ち、住民との話し合いを進めていました。おこがましい言い方ですが、その過程を通して職員が成長していく様子を目の当たりにしました。他の自治体からの応援職員も熱意を持って仕事をしていました。ただ、応援職員が元の自治体に戻ったとき、大槌町での経験の意義を周りに理解してもらうのはとても難しそうです。復興の経験を地元で共有して生かす仕組みが必要だと感じます。

原子力発電所事故からの復興過程にある福島県南相馬市にも通い続けていますね。

窪田教授:

もともと公害問題に関心を持っていました。原子力災害も公害のひとつだと考えています。2014年から通っている南相馬市小高(おだか)区は、原発事故で約5年間避難指示が続き、全住民が避難した地域です。

学生と一緒にまちづくりの手伝いをするようになり、住民の帰還が始まった2016年には、私が所属していた東京大学と南相馬市が協定を結びました。各集落が話し合いを始めたり進めたりするための支援で、住民の希望に沿って資料を作成し、イベントを手伝い、集会所の再建プロジェクトや住民が集まるサロンの復活、土地の利用管理体制の再構築にかかわりました。

その活動の中で、住民から教えられた重要な視点は「地域に戻ってくる人数を目標にしてはいけない」ということです。最も大切なのは、今住んでいる人々がいかに満足し、豊かに暮らしていくかということ。その点を一番に考えるべきだと気づかされました。

神戸の財産といえる「まちづくり」が変質する懸念

阪神?淡路のまちづくりの教訓は、その後の災害で生かされているのでしょうか。

窪田教授:

神戸では震災後、行政が示した計画に対し、市民が「それは嫌だ」という意思を示しましたよね。日本において「まちづくり」という言葉は、住民の、住民による、住民のための運動として始まりました。そこには「自分たちの居住環境にかかわるのは当然だ」という意識がありました。神戸ではそれが震災後に強く現れ、今も根付いている貴重な財産だと思います。

しかし、東日本大震災後、被災者の多くも社会も壊滅的な被害を受けた被災地を見て、「国になんとかしてもらわねば」という思考になってしまっていたように感じます。今や、住民が意見を出し合う泥臭いまちづくりに時間をかけるのはもったいない、という雰囲気さえ感じることがあります。特にここ数年、そういう変化を強く感じます。

その変化は、日本中、世界中で起きている「都市化」の影響が大きいと思います。地域というものは本来、多様な人々が集まっている時空間で、会いたくない人にも会うし、さまざまなぶつかり合いもあります。だから面白いともいえます。けれど、そんなことが起こらないほうが楽だと感じる人が増えているのではないでしょうか。お金で解決できることはお金で解決し、行政に任せられることはそれで済ませようとする。人々がそういう社会を求めていると同時に、都市計画学という分野も、実はその方向で動いてきたのではないかという感覚があります。

能登半島地震の被災地でも、復興まちづくりは大きな課題となっていますね。

窪田教授:

高齢化、過疎化が激しく、力がない地域だと思われているかもしれませんが、住民の意思を聞かずに力がないと決めつけるのではなく、「住民がどうしたいか」を問う場を設けることが大切だと思います。問い掛けがあれば、住民は考えます。

考えるための公的支援も必要です。住民が過去の復興事例を見に行きたいと思えば、それを支援すればいいし、情報収集も不可欠でしょう。そのような後押しをすることで、議論も進みます。「住民には力がないから」と、行政がまちの将来像を描いていくのでは、過去の失敗例を繰り返すことになってしまいます。

 

「都市化」の価値観を見直し、災害の巨大化を抑える

 

窪田亜矢教授(神戸市灘区の神戸大学) 

「地域デザイン」を研究テーマにされていますが、「都市計画」とはどう違うのでしょうか。復興にはどのような地域デザインが必要なのでしょうか。

窪田教授:

都市計画というと、悪いものを改善してまっさらにし、その白紙の地図上に道路を通したり何かを造ったりする感じがしませんか。でも、被災した地域は白紙ではありません。そこには被災時点の状況があり、それが住民の命や暮らしをまがりなりにも支えていました。だから、住民が「元のまちに戻したい」と願うのも当然といえます。

ただ、被災時点の状況はすべて肯定できるものでもなく、課題はあったはずですから、現状とは異なる姿を考えていかねばなりません。その姿を、住民が主体的に見出していくのが、地域デザインの思想です。

地域とは「この地域のためなら頑張ろうと思える」というものではないでしょうか。しかし、都市計画は、そういう住民の主体性をややもすると無視してしまいます。再開発事業にしろ、土地区画整理事業にしろ、制度に沿って全国に同じような街ができてしまっています。こうした制度は本来、各地域が「こんなまちをつくりたい」と考えて使う手段のはずなのに、転倒が起きているようにみえます。

災害が発生すると、キラキラ輝くような復興計画が出てくることがよくあります。しかし、被災前にできなかったことが、被災後に突然できるようになるとは思えません。面倒でも時間をかけて話し合い、闘うべきところは闘い、「自分たちの地域や暮らしにとって本当に大切なものは何か」を考えていくしかないのだと思います。

これからの大災害に私たちはどう向き合うべきでしょうか。

窪田教授:

さきほど触れた「都市化」は、工学技術の集大成ともいえます。技術の粋を集めた都市化の結果、災害も巨大化しています。公害にしても、昔は一企業の利益追求が発端になる場合が多かったのですが、原発のような公益事業になると、影響はさらに大きく広がっていきます。私たちの生活のあり方も、そこに加担しています。

都市計画の分野だけでなく、土木でも情報工学でも、あらゆる領域で、今の「都市化」をどう変えるかを本気で考える時だと思います。都市化という価値観は、人口減少や少子高齢化などの社会課題とも結びついています。異なる価値観をいかに取り入れ、根本的な再構築をどう図っていくか。その問いに真剣に向き合っていく必要があると考えています。

※神戸大学と東北大学は災害科学分野の包括協定を結んでおり、窪田教授は2025年1月11日に本学で開催する震災30年シンポジウムに登壇される予定です。

窪田亜矢教授 略歴

1991年、東京大学工学部都市工学科卒。93年、東京大学大学院工学系研究科修士課程修了。株式会社アルテップ(東京)で都市設計業務に従事した後、98年、コロンビア大学大学院歴史的環境保全専攻修士課程修了。2000年、東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。博士(工学)。東京大学大学院工学系研究科准教授、特任教授などを経て、2023年から東北大学大学院工学研究科都市デザイン研究室教授。

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