*この研究成果はWEB公開のみでプレスリリースは行っておりません
総合地球環境学研究所(地球研)のAakashプロジェクト*の研究者による国際共同研究で、インド北西部のパンジャーブ州とハリヤーナー州の農村部や郊外における農業残渣焼却(稲わら焼き)がその地域の大気汚染へ大きな影響を与える一方で、デリー首都圏への寄与はこれまでに考えられていたほど大きくないことを明らかにしました。Aakashプロジェクトでは、PM2.5**センサーおよび複数のガスセンサーからなる小型大気計測器 (CUPI-G; Compact and Useful PM2.5 Instrument with Gas sensors)を約30台設置し、2022~23年に大気汚染を継続的に観測しました。農業残渣焼却による大気汚染物質の放出と輸送を評価?予測するための新しい分析方法を開発しました。
神戸大学からは、海事科学研究科の山地一代 准教授が、本プロジェクトに参加し、大気中のPM2.5の数値実験や解析などを通して本成果に貢献しています。
研究の背景と目的
デリー首都圏では、毎年10月から11月にかけてたびたび警戒レベルの大気汚染が起きており、大気汚染が人間の健康と社会経済環境に及ぼす悪影響は、何十年にもわたり大きな懸念事項となっています。デリー首都圏でPM2.5の高濃度イベントが急速に形成されて持続する要因には多くの仮説があり、インド北西部のパンジャーブ州とハリヤーナー州の農業残渣焼却が大きく寄与しているという説(図1)もそのひとつです。デリー首都圏での大気汚染の形成メカニズムは、今日にいたるまでメディアの報道や研究出版物などで議論が続いているにも関わらず、政府レベルの政策立案者は、刈入れの際の農民の行動を変えることによって農業残渣焼却の根絶を目指すことに重点を置いてきました。デリーの大気汚染の要因にかかわる議論は、わら焼きが盛んな地域での体系的な観測体制が不十分であるために続いています。今回の研究では、 (1)Aakashプロジェクトが構築した低コストな計測器CUPI-Gを約30台設置した大気汚染物質のネットワーク観測 (2)空気の流れる様子、火災数、風の解析、および (3)化学輸送シミュレーションを組み合わせることで、農村部、郊外、および大都市のPM2.5に対する農業残渣焼却の影響を評価しました。
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主な研究成果
1.火災検知数の減少とPM2.5濃度の変動
観測結果から、2015年から2023年の間にパンジャーブ州とハリヤーナー州で衛星による火災検知数が大幅に減少したにもかかわらず(本論文Figure 1参照)、デリーのPM2.5濃度は高いままであることが明らかになりました。PM2.5の濃度は、2022年と2023年のどちらも、地点ごと日ごとに大きな変動を示しました(図1)。両年ともパンジャーブ州南西部で非常に多くの火災が検知されており、デリーでも日平均PM2.5濃度が300μg m-3を超えましたが、2022年と2023年の農業残渣焼却のピーク期間(11月1-12日)では気象条件が著しく異なっていました。
2.気象条件の影響
2022年11月には強い北西の風が吹き、パンジャーブ州とハリヤーナー州からデリー首都圏への汚染された空気塊の移動が2度起きました。しかし、2023年11月には南西の弱い風(<1 m s-1)のもとで空気の動きが限定的になり、デリー首都圏で生じた汚染物質が滞留しました(図2)。
3.汚染物質の主な発生源
今回の分析では、デリー首都圏と周辺地域の大気汚染対策を所管する大気質管理局(Commission of air quality management; CAQM)が発令する車両の走行規制や在宅勤務の移行などの段階的な各種規制「行動計画」(Graded Response Action Plan; GRAP)の適用開始(解除)とPM2.5濃度の上昇(減少)が対応することからも推測できるように (図2)、デリー首都圏で蓄積し滞留するPM2.5は主にデリー地域内部の起源であることを示しました。
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4.デリー首都圏の大気汚染への稲わら焼きの影響
この研究では、準リアルタイムでの観測データの処理とモデルを用いた解析も行いました。その結果、北へ向かう風はヒマラヤ山脈によって遮られるため(図1a、cを参照)、新たに排出された、あるいは光化学的に生成されたPM2.5は、北以外の3方向に不規則に輸送され、大気境界層で鉛直方向に拡散することがわかりました(図3)。このため、パンジャーブ州とハリヤーナー州の農業残渣焼却は、コメ収穫のピーク期間(10月?11月)であっても、デリー首都圏の大気質を悪化させる決定的な原因になるとは限らないと結論づけられました。
また、Aakashプロジェクトはこれらのデータと解析結果の図表を、2023年以降、ウェブサイト(https://aakash-rihn.org/en/campaign2023-week13/ など)から10月下旬から11月にかけてオンラインで公表し、毎日更新しました。
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図 3. Aakash/CUPI-Gの地上観測ネットワークにより、パンジャーブ州からデリーまでの空気の動きを可視化した図です。デリー首都圏で高濃度のPM2.5 が観測された4日間(2022 年;上段、2023 年;下段)を示しています。農業残渣焼却によってパンジャーブ州南部の日平均PM2.5濃度(赤い丸)は常に上昇しますが、その直接的な影響がデリー首都圏に到達することはめったにありません。地上観測装置であるCUPI-Gは、上空から観測する衛星が農地火災を検出できない煙霧や曇りの条件下でも、PM2.5を継続的に観測できます。
研究の意義
Aakashプロジェクトのリーダーであるプラビル?パトラ教授(地球研/海洋研究開発機構(JAMSTEC))は「パンジャーブ州、ハリヤーナー州、デリー首都圏をカバーする約30カ所での観測データを、広い範囲でのPM2.5濃度分布や時間変化を高濃度イベントに着目して解析することで、デリーのPM2.5変動からインド北西部の稲わら焼きの寄与を、週~月平均レベルで分離することができました」と述べています。プロジェクトが収集した複数年(2022-2023年、2024年分も解析中)の大気汚染物質の観測データを利用して、観測結果の確認と仮説の検証ができるようになりました(図3)。
また、筆頭著者であるプーナム?マンガラージ博士は「有害で長く続く大気汚染と戦うために的を絞った緩和戦略を実施するためには、発生源(パンジャーブ州)、流入域(デリー首都圏)、および中間地域(ハリヤーナー州)のすべてで大気汚染を継続的に監視することが重要であることを、私たちの研究は強く示唆しています」と強調しました。
まとめ
今回の成果は、デリー首都圏の大気汚染対策を科学的根拠に基づいて再評価する重要な知見を提供しました。また、農業残渣焼却がデリーの大気汚染に与える影響は限定的である可能性を示唆しており、適切な緩和策実施の必要性を提案しています。
この研究は、人間文化研究機構総合地球環境学研究所のAakashプロジェクト(プロジェクト14200133号)の一環として実施されました。2022-23年の集中的な広域観測キャンペーンは、インドのCenters for International Projects Trust (CIPT)の支援を受けて実施されました。
PM2.5の観測データは、オープンデータ共有ポリシーに基づき、地球研?Aakashプロジェクトのホームぺージから公開されています。
注釈
*Aakashプロジェクト『 大気浄化、公衆衛生および持続可能な農業を目指す学際研究:
北インドの藁焼きの事例』では、観測データとモデルシミュレーションを用いて、パンジャーブ州のわら焼きとデリーの深刻な大気汚染との関連を科学的に検証します。その結果をもとに、文化的背景や、大気汚染が及ぼす健康への悪影響に対する住民意識も配慮しながら、大気浄化?公衆衛生の改善?持続可能な農業への転換に向けた人々の行動変容を推進していきます。
**PM2.5:
直径2.5μm未満の粒子状物質(通称PM2.5)。これらの微粒子は、呼吸によって人間の肺の深部に到達し、呼吸器に沈着するなどして健康被害を及ぼす可能性があります。物質の燃焼から発生する微粒子は、通常、鉱物ダストや海塩粒子などの自然起源エアロゾルよりも人体に与える悪影響が大きいことが指摘されています。
論文情報
タイトル
DOI
10.1038/s41612-025-00901-8
著者
Poonam Mangaraj, Yutaka Matsumi, Tomoki Nakayama, Akash Biswal, Kazuyo Yamaji, Hikaru Araki, Natsuko Yasutomi, Masayuki Takigawa, Prabir K. Patra, Sachiko Hayashida, Akanksha Sharma, A. P. Dimri, Surendra K. Dhaka, Manpreet S. Bhatti, Mizuo Kajino, Sahil Mor, Ravindra Khaiwal, Sanjeev Bhardwaj, Vimal J. Vazhathara, Ravi K. Kunchala, Tuhin K. Mandal, Prakhar Misra, Tanbir Singh, Kamal Vatta, and Suman Mor
掲載誌
npj Climate and Atmospheric Science
論文公開日
2025年1月15日