本書における問題の中心は「死者」にある。いずれ死にゆく私たちは、その「死」をいかに受けとめ、そこにどのような意味を見出すことができるのか。
歴史的に見て、死に意味を与えてきたのは、宗教的世界観であった。しかし、そのような世界観に埋没することを容易には許さない近代という時代において、多くの人々は、合理的世界観のもとにおける合理的思考の限界を超えたところにある「死の意味」という問題に、直面することになる。意味を見出せない死とはいわゆる「犬死に」であり、近代においても人々は全力をもってこれに抗う。ナショナリズムは、こうした「死の意味」をめぐって人々に影響力を行使するのであり、それゆえに「近代世界」とはすなわち「ナショナルな世界」を意味してきたのである。
著者が近代会津を事例として取り上げたのは、以上のような文脈からである。戊辰戦争において「賊軍」とされた旧会津藩の戦死者は、東京招魂社 (のち靖国神社) の祭神から除外され、ナショナルな祭祀体系から積極的に排除された。そのような「犬死に」の経験を抱えつつ、それでもなお近代日本という国民国家に生きるほかなかった近代会津の人々は、その後どのようにしてこの非業と不条理とを「克服」し、「解決」していったのか。幕末維新期から現代にかけてという長いタイムスパンをもって本書が注目したのは、近代人のアイデンティティに関わるそのような問題であった。
単なる会津郷土史研究ではなく、それを一歩踏み越えたところで、「死の先達としての死者」と「いずれ死にゆく生者」との関係に迫ろうとする意図を本書から汲み取っていただければ、著者としては幸いである。
国際協力研究科助教?田中悟