本書は、従来の仏教研究にない社会史の観点から、現代タイ仏教最大の学僧であり改革者と評価されるプッタタート比丘(1906-93)の思想をめぐって現代タイの仏教徒が繰り広げた仏教論議にアプローチした研究である。
タイでは、20世紀に入って、サンガにおける宗教教育が向上し、出版?放送などのマス?メディアが普及し始めたことにより、従来、慣習や伝承に依拠して仏教を理解していた仏教徒大衆に対し、三蔵に見られる仏教の諸概念をもとに「真の」仏教を広めようとする僧侶?元僧侶などの仏教知識人による仏教再宣教の動きが盛んになった。プッタタート比丘は、こうした潮流の中で、パーリ語の三蔵を自ら読み解き、そこに記されたブッダの言葉に基づく仏教を、現代に生きる人々の人生に適用可能な教えとして、平易な言葉で解説し、知識人を中心とした多くのタイ人の仏教理解を一新するほどの大きなインパクトを与えた。
本書では、プッタタート比丘と同時代を生きたタイ仏教徒が、寺院の境内や書店の店頭、仏教雑誌やポケットブックなどの刊行物において、出家?在家という宗教上のステータスの違いにとらわれず、仏教の教理解釈について自由な議論を戦わせた場を「仏教公共圏」(Buddhist public sphere) と名付け、プッタタート比丘が提起した「空の心」「仏法社会主義」などの概念?解釈についての現代タイ仏教徒の活発な教理論争をその社会的背景とともに具体的に描き出した。その結果、「Thera (長老) + vada (言葉?教え)」という名前の通り、画一的な教理を連綿と受け継いできたと考えられがちであった従来の上座部仏教理解を転換させ、一元的に国家統合されたタイ?サンガの形態とは裏腹に、現代タイ上座部仏教の仏教公共圏には自由で多様な教理解釈が存在することを明らかにした。本書の研究は、社会的?政治的背景に関する綿密な考察とともに、現代タイ上座部仏教の思想的展開をリアルに描き出したユニークな実証研究である。
国際文化学研究科?准教授 伊藤友美