本研究は2013学会年度~2016学会年度において日本比較教育学会研究委員会(当時)が中心となって、同学会の才能教育に関心を寄せるメンバーを中心とした組織によって、グローバル化する世界、社会の中で、能力形成のあり方がどのように変容しているのか、そのあり方の変化には地域差はあるのか、またその変化に対して能力形成の研究はどのようなインパクトを与えているのかを総合的に検討しようとするものである。才能教育の国際比較は過去数度行われてきたが、日本においては2005年度の京都大学大学院教育学研究科比較教育学研究室による報告書『児童?生徒の潜在的能力開発プログラムとカリキュラム分化に関する国際比較研究—江原武一教授退職記念論文集—』、2012年の日本比較教育学会編『比較教育学研究』第45号(東信堂)における特集以来なされていない。グローバル化に関して2005年度と現在の状況はまったく異なるのであり、したがって、本研究は新しい能力形成、特に才能教育のあり方についての議論に寄与すると考えている。
日本においては、戦後、才能教育は、英才教育、早期教育、エリート教育などとともに、非民主的教育の代名詞として、公教育においては否定されてきた。わずかに音楽、美術、スポーツを中心とする領域で、民間の教育者、教育運動家が公教育の外で行ってきたにすぎない。あるいは障碍者の教育に関して、早期教育が限定的に認められてきたにすぎない。そのような状況の下では、これらの教育について研究することも制約が大きかった。ところが、1990年代に入り、「教育上の『例外措置』」としていわゆる「飛び入学」が認められ、才能教育が限定的に容認されるようになってきた。21世紀に入ってから、この流れは一層加速し、例えば公立学校に特進コースができるなど、かつては考えられなかったような才能教育の浸透がみられる。
もともと才能教育の場合、他の一般の教育と比べて国策との関係が深くなるという仮説がある。例えば、国家?社会として、どの領域の才能の育成に力を入れるかという課題について考えてみればよくわかる。優れた才能は、その才能を有する当該個人のものであり、したがって当該個人の十全な発育を促すという個人主義的な教育思想と、優れた才能はその才能を有する当該個人のものであるにとどまらず、当該個人の属する社会全体にとっての貴重な資源でもあるという集団主義的な教育思想がせめぎ合うフィールドが才能教育なのである。この動向は21世紀に入ってからのグローバル化の流れによって一層促進されているように見える。スーパー?グローバル?ハイスクールやスーパー?グローバル?ユニバーシテイなどの指定はその一例であるし、文部科学省が大学のグローバル化を促進しようと策定する各種の競争的資金もその例であろう。かつて才能教育は、エリート教育と同様、優生学や民族主義のにおいのする「危険な教育」であったが、現在はエリート教育と切断されて市民権を得たというわけである。今回の「グローバル化」という潮流の中で各国の才能教育が同じ領域で同じ方法で教育が行われる方向に収斂するようにもみえるが、各国の研究状況を見れば、やはり国ごと、地域ごとに大きく異なると考えられる。
今回のグローバル化が進行する中での、グローバル人材の育成という名の下での才能教育の促進傾向については、従来何度か盛り上がりを見せた才能教育の潮流とは明らかに異なる点がある。それは「グローバル?スタンダード」なるものが設定され、その設定に従って教育が行われようとしている点である。教育学者は個人主義的な教育思想に基づいて発想するが、実際に政策を推進する側には集団主義的な教育思想に基づいて発想する者も多くいる。グローバル化への対応の中で、政策決定者は、世界の潮流に乗り遅れないようにするためグローバル化を推進する政策決定を求められるが、他方、国家の枠に縛られない教育を受け、国家の枠に縛られずに自己の能力を生かす職場を見つけ得るということで個人主義的な教育思想を持つ人々にもグローバル化は受け入れられるのであろう。後者の研究が前者の意思決定に少なからずインパクトを持つのではないかと考えられる。
しかしながら、世界各国がその「グローバル?スタンダード」なるものをどのように構築し、どのように教育の実践に移しているのかは、国家によって異なるし、また国内でも地域間に格差があることが当然、予想される。つまり、グローバル化の中で才能教育が「グローバル?スタンダード」のもとで収斂していくように見える一方、才能教育の地域間?国家間の多様性もあらわになっていくという、相反する二つの潮流が同時に存在するのではないかとわれわれは考えている。この二つの潮流はどのように絡み合っているのか?またそのような潮流において、政策形成に対して才能教育の研究はどのようなインパクトを与えているのか?これが本研究の根本的なリサーチ?クエスチョンである。
このような状況を踏まえ、本研究は2016(平成28)年6月26日 日本比較教育学会第52回大会(大阪大学)「課題研究Ⅱ グローバル化時代における教育を考える—才能教育の視点から—」における報告(報告者:澤野由紀子、中矢礼美、田中正弘、武寛子、司会:山内乾史)および2017(平成29)年6月25日 日本比較教育学会第53回大会(東京大学)「課題研究Ⅱ グローバル化時代における教育を考える(Ⅱ)—才能教育の視点から—」における報告(報告者:南部広孝、石川裕之、原清治、報告者兼司会:山内乾史)の成果と、かつ前述の『比較教育学研究』第45号特集(執筆者:山内乾史、杉本均、石川裕之、南部広孝、植田みどり、田中義郎、西村幹子)の成果をもとに刊行されるものである。
先述のように、日本比較教育学会の紀要である『比較教育学研究』第45号(東信堂、2012年6月)において、編者が紀要編集委員長の時代に、「各国の才能教育事情」と題する特集を組み、日本、シンガポール、韓国、中国、イギリス、アメリカ合衆国、南アフリカについて研究成果が報告された。ただし、この特集の際にはとくにグローバル化という大きな潮流と絡めることを意識しない論稿もあり、またわずか6年とはいえ、この特集以降の新たな動向も各国各地域とも起こっている。したがって、この特集にかかわった者すべて、および日本比較教育学会研究委員会(当時)の委員すべて、それに加えて各国の「能力形成」に通じた会員の参加を求め、総計14名で本書を執筆することとなった。
編者は長く、才能教育、エリート教育、英才教育、早期教育等の教育に関心を持ち、いくつかの論稿を著してきたが、これらのテーマについて論稿を著すことは、おそらくは、今回が最後であろう。執筆者各位に感謝申し上げると同時に、本書の刊行をご快諾いただいた東信堂の下田勝司社長に心から感謝する。
大学教育推進機構/大学院国際協力研究科?教授 山内乾史